#64 Super Snoopy (1970)





#64 Super Snoopy (1970)

 この機体はダグラス製のDC-7BF。 レシプロ旅客機の貨物型なんですが、この機も正真正銘のエアレーサーです。

 時は1970年。カルフォルニア州南部にあるモハービ空港で新たにエアレースが企画されました。 当時有力なレースパイロットでもあったダリル・グリーネマイヤーやチャック・ホールらによってプロモートされた"カリフォルニア1000"エアレースは、10本のパイロンで区切られた全長15.15マイルのクローズドコースをリノとは逆の時計回りに66周、合計1000マイルを争う耐久パイロンレースという従来にない試みでした。
 1000マイルもの長距離はリノのレースの約10倍、当時行われていた大陸間横断レースの約半分にもなるためにレース途中でピットインしての給油も見越したルール設定になっていました。 しかし途中の給油はレースの必須条件ではありませんでした。

 そこに目をつけたのがユナイテッド航空の機長を務める傍らで自らもラスベガスやハリウッドでリアジェットビジネス機によるチャーター便を運行する航空事業を営んでいたクレイ・レイシーでした。 彼は64年の第1回リノ・エアレースからのレース歴を持ち、全面紫色塗装の派手な P-51D #64 "Miss Van Nuys" でその年9月のリノ・エアレースに優勝している猛者でもありました。

 レイシーは自分のP-51で耐久レースに出場すれば途中の給油が不可欠になり、それが大きなタイムロスに繋がるならば、速度性能と航続力に優れた大型旅客機のDC-7で途中無給油のノンストップ飛行をすれば大きなアドバンテージを獲得出来ると考えました。
 こうして前代未聞の4発旅客機パイロンレーサーが誕生しました。 レーサーとは言え機体はストックコンディションのままでしたが、強力なターボコンパウンド付きR-3350エンジン4基の合計出力は1万3000馬力に達しました。 レースナンバーは彼のP-51と同じ#64、機首に大きく愛称の "Super Snoopy" のロゴが入れられました。 スヌーピーはレイシーのP-51にも描かれている以前からの彼のマスコットで、ラダーには飛行帽を被りスーパーマンの格好をしたスヌーピーが描かれました。 彼は機内にも人の背丈ほどもあるスヌーピーのぬいぐるみを同乗させていました。 副操縦士はこの機をレイシーに提供した航空機ブローカーで、後にガルフストリーム・エアロスペースの社主となるアレン・E・ポールソンが務めました。

 レースの決勝は1970年11月15日。 出場した20機の内訳は単発機が17機で双発機が2機、そしてレイシーのDC-7が1機で、半数はP-51Dマスタングでした
 予選タイムでは最下位に甘んじたレイシーでしたが、レースでは12歳から操縦を始めたという卓越したテクニックで巨大で重いDC-7を巧みに操り、身軽な他機にも引けを取らぬ低いコースを飛行しました。 レイシーはレースを完走した16機の中で6位に食い込み、少額ながら賞金をせしめる事に成功しました。
 このレースで優勝したのはシャーマン・クーパーの操縦したホーカー・シーフューリー #87 "Miss Merced" で、この機は大陸横断用に大改造を施されていました。 クーパーも途中給油なしのノンストップ飛行を敢行して記録は2時間52分28秒、平均速度344mph (544km/h)、2位のP-51(後の#84) を5周も引き離す圧倒的勝利でした。

 翌年7月、カリフォルニア州サンディエゴでも1000マイルの耐久パイロンレースが開催されました。 
 その予選にはモハービのレースに手応えを感じていたレイシーの#64の他に、前年レイシーの副操縦士を務めたポールソンが自らの乗機としてロッキードの4発旅客機、L-1049Gスーパーコンステレーションをレース機に仕立てた #64c "RED BARON" を持ち込んでいました。
 しかしレースにエントリーしていた小型機のパイロット達からこの2機の大型旅客機と一緒には飛べないとの抗議が入り、決勝前夜に話し合いが持たれました。 最終的にレイシーとポールソンは出場を取り下げる格好になって4発機レーサー同士の直接対決は惜しくも幻に終わってしまいました。 まあ他の競争相手にしてみれば強い乱流を曳いて飛ぶ大型機が2機も居たらコース周回するのは危なっかしくて仕方がないというのも本当なんでしょうけどね。





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