#30 Flying Red Horse (1946)





#30 Flying Red Horse (1946)

 空軍で現役のテストパイロットをしていたチャーリー・タッカーは第二次大戦が終わり、再開されることになるオハイオ州クリーブランドでのナショナルエアレースに向けてアリゾナの処分施設に置かれていたP-63を2機購入、その片方をパイロンレースのトンプソン杯仕様に、もう片方を大陸横断レースのベンディックス杯仕様に改造することにしました。 その頃P-63の放出価格は1000ドルで、P-63を2機買っても当時3500ドルの値札が付いていたP-51よりもまだ安く、お値打ちな買い物だった様です。
 パイロンレース仕様は民間登録記号NX62995 #28 "Tucker Special"。高速性能を狙って両翼を6.5フィート=約2mずつも大胆に切り詰めた機体でした。しかし#28はその翼の切り詰め過ぎが祟って、飛ばすのが極端に困難な機体になってしまっていました。1946年のトンプソンでは主脚の動作不良から決勝をリタイヤする有様で、#28はその後も不具合を連発し結局成績を残さないままレースの世界から姿を消してしまいます。

 もう1機のP-63はNX63231 #30 "Flying Red Horse"として1646年のベンディックス杯に姿を現しました。この機も翼端を詰めていましたがその幅は両翼4.5フィート=約1.4m程で、その翼端にはP-38の落下タンクが取り付けられました。機首と翼端には愛称にもなっている、スポンサーであるモービル石油のトレードマーク、翼を生やした赤い馬が描かれました。 そのベンディックス杯で#30はエントリー31機、スタートしたのが21機、完走17機というレースに7位の成績でフィニッシュしています。その後姉妹機の#28が不調続きでレースに出られない事からパイロンレーサー仕様とされ翼端タンクを降ろした#30は愛称を "Easter Egg"として1949年のトンプソン杯に出場、決勝で5位に着けています。しかし1949年のトンプソン杯で起きた事故と、朝鮮戦争の勃発の影響で米国でのエアレースは長い長い休止期間に入ってしまい、#30も長らく放置されていました。

 長い休止期間を経て米国では1964年からネバダ州リノでナショナルエアレースが再開されることになりました。 そこから暫く経った60年代末、保存されていたこの機体を再びレースに復帰させる計画が持ち上がりました。
 その後の顛末はこの辺






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