#14 BARDAHL II (1967)





#30 Flying Red Horse (1946)

 この市松模様のP-51は1960年代後半、リノでナショナルエアレースが始まった頃に活躍したE.D.ウェイナー(E.D.Weiner)の乗機です。

 エリス・D・ウェイナーは大戦中に陸軍航空隊で主に各種軍用機のフェリー空輸任務に当たっていた飛行士でした。 大戦後間もなくの40年代後半にクリーブランドでナショナルエアレースが行われていた頃は資金難で参加を果たせなかったウェイナーでしたが、戦後カリフォルニア州ロングビーチでアビオニクス器機を扱う事業で資金を得た彼はリノでのエアレース再開に際して元カナダ空軍機のP-51を2機購入、1機を短距離のパイロンレース用に、もう1機を当時行われていたもうひとつのアンリミテッドエアレースの競技種目である大陸横断レース用に仕立てました。
 この2機、パイロンレース用の民間登録記号がN335J、大陸横断用はN335なんですが一時期双方がレースナンバー#14を共用しており、後に短距離用のN335Jが#49になるんですが、名前も塗装も双方で何度か替わって一貫しておらず紛らわしいので結局固有の機体を指す時は「E.D.ウェイナーのN335J」とか記号で呼ばれる事が多いです。

 今回採り上げるのは大陸横断競技用のN335の方で、レース用に機体構造をクリンナップ、その際翼の燃料タンクと機銃と弾倉用の空間をシーリングして翼構造を直接燃料槽として容量を稼ぐウェットウィングとし、更に操縦席後部へ燃料とオイルのタンクを追加するなどの大陸横断仕様への改造が施されました。
 N335のレースの初参加は1965年のハロルドクラブ大陸間横断レースでした。フロリダのセントピーターズパークからリノへの2260マイルを6時間28分38秒の348mphで優勝、ハロルドクラブ杯のない翌66年はセントピーターズパークからカルフォルニアのパームスプリングへ2255マイルのレースを5時間36分、364mphで優勝しています。 更に翌年の67年はパームスプリングからオハイオのクリーブランドへの2020マイルへのレースで4時間55分411mphでこれまた優勝と無類の強さを誇っていましたが、同年のハロルドクラブ杯ではイリノイのロックフォードからリノへの1620マイルを4時間1分20秒、399mphの首位に僅か1分半遅れの2位でゴールしています。この時ウェイナーを破ったのはマイク・キャロルが高度に改造を施したホーカー・シーフューリーの#87 Signal Sea Furyでした。
 この絵はその67年当時仕様で、66年より潤滑油・潤滑剤ブランドとのスポンサー契約の元に機首にBARDAHL IIと大書きした白黒の市松模様で、少しでも抵抗を減らすべくパネルラインにスコッチテープで目張りをしています。

 翌68年のハロルドクラブ杯、ウェイナーのN335は風防と天蓋をレーシングキャノピーへと換装、市松模様も黄と黒へと一新した姿で現れウィスコンシン州ミルウォーキーからリノへの1667マイルを4時間37分3秒、361mphで優勝して雪辱を果たしています。

 1969年、ウェイナーは新たに別の潤滑油ブランドのスポンサー契約を得てN335を機体を全面赤に塗り替えて愛称も"STP Spcial"と改めてハロルドクラブ杯へ出場登録をしたものの、赤い#14はスタート地点のミルウォーキーに現れませんでした。 実はハロルドクラブ杯に先だって行われたリノのパイロンレースでウェイナーは彼の短距離仕様のN335J、#49 "BARDAHL miss"でヒートレースの周回中に心臓発作に襲われてなんとか緊急着陸を果たすものの、そのままリノの病院に搬送されましたが病状は快復せず10日後に絶命してしまいました。

 ウェイナーはパイロンレースでもN335Jで66年のロサンゼルスとリノで優勝、67年のリノで2位に着けるなど活躍しており当時のエアレースで大きな存在でした。
 また68年にはもう1人の立役者だったマイク・キャロルが事故で他界していて、二人の大きな支えを失ったハロルドクラブ杯は1970年の競争を最後に終了してしまいました。 それは1928から続いた米国の大陸横断レースの歴史の終わりでもありました。






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