Cook Cleland's #94 (1949)





#94 (1946)

 クック・クリーランド (Cook Cleland) は海軍の急降下爆撃機乗りでしたが爆撃機乗りなのに対日戦で5機撃墜のスコアを挙げたエースで、本国に戻っては鹵獲機のテストパイロットを務めた優秀な飛行士でした。 戦後はオハイオで小さな空港を買い取り飛行訓練のインストラクターやチャーター便の運航などをしていました。

 クリーランドは1946年のナショナルエアレース再開に際し払い下げのグッドイヤーFG-1Dコルセアを購入、レース用に改造を施し#92 "Lucky Gallon"としてパイロンレースのトンプソン杯に出場、平均速度357.5mphで飛んで6位に着けました。 出場12機のうちクリーランドのFG-1が唯一の海軍機、唯一の空冷星形エンジン装備機で他はP-63、P-39、P-38そしてP-51と陸軍の液冷エンジン機であり、それらに遅れをとることは元海軍のクリーランドには不本意な結果でした。

 翌47年、クリーランドは海軍から放出されたコルセアの発展型F2Gを4機買い付けました。 F2GはボートF4U-1をFG-1の名前でライセンス生産していたグッドイヤーが開発した、原型機のエンジンを2000馬力のP&W R-2800から3000馬力のP&W R-4360に換装した機種で、僅かに試作機5機と生産型10機が作られたところで終戦により生産が打ち切られ活躍の場を失った高性能機でした。
 47年秋のナショナルエアレース、クリーランドはクリーブランドに3機のF2Gを持ち込みました。クリーランド本人は青の#74で決勝を396.1mphで飛び優勝、白い機体に機首と垂尾翼を赤に塗った#94は海軍のテストパイロット時代の同僚で友人だったリチャード・ディック・ベッカー(Richard "Dick" Becker)に託され390.1mphで2位と堂々の成績を収めましたが、この時3機目の黒い#84で飛んだ海軍の予備役飛行士だったトニー・ジャナッツォ(Tony Janazzo)はレースの周回中に地上へ激突し命を落としてしまいました。操縦席に一酸化炭素ガスが入り込んだのが原因だと考えられています。

 翌48年にはクリーランドとベッカーは乗機を乗り換え、クリーランドが全面を白く塗り替えた#94に、ベッカーが青の#74に乗ってトンプソン杯に参加しました。 この年のレースでクリーランドのチームを含む参加者の半数がシェル石油から提供された過剰に添加剤を配合した高パフォーマンス燃料を使用したのですがこれがかなりの曲者で、決勝に臨んだ10機の内無事レースを終えたのが3機のみという有様でベッカーもクリーランドも序盤にバックファイアで吸気系を壊しリタイヤでレースを終えています。

 1949年のトンプソン杯、クリーランドのチームにはベッカーの#74に加え予備機だった赤いF2G-1の#57のパイロットとしてクリーランドの会社で飛行教官をしていたベン・マッキレン(Ben McKillen)が参戦しました。 ベッカーは予選で最速のラップを記録したもののその後エンジンを壊して決勝に進めませんでしたが、クリーランドの#94は決勝で397.1mphで優勝、マッキレンも387.6mphで3位でレースを終えました。 この時2位に着けたのもクリーランドと同じく海軍からF2Gを買い取り、47年からレースに参戦していたロン・パケット(Ron Puckett)の#18で、1位から3位をF2Gが独占する海軍機乗りの面目躍如という結果ではあったのですが…
 このレースの序盤、2周目の周回中にビル・オドム(Bill Odom)の乗る高度に改造されたP-51Cレーサーの #7“Beguine" が墜落、民家に突っ込んで中の母親と赤ん坊を巻き込む惨事が起きており、クリーランド達の勝利は水を差された格好になってしまいました。 その後朝鮮戦争の勃発もあって合衆国のナショナルエアレースは長い休止期間を迎えることになりました。

 イラストの機体はクリーランドが49年のトンプソン杯で優勝した#94。 この機は5機作られた試作機 XF2G-1の中の1機で、この時には翼端を左右4フィートずつ詰めて翼端版を装着し、大型のスピナーが追加された姿になっています。レースに先立って出力増加用の過酸化水素噴射装置を搭載してテストが行われましたが思う様な結果が出ずレースでは使われませんでした。
 レースのあと機体はクリーブランドの空港敷地内に野晒しで放置されたまま破損が進み、55年に空港消防隊の訓練で焼かれ失われてしまいました。





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