Paul Mantz's #46 (NX1202) (1946)





Paul Mantz's #46.jpg (1946)

 この登録記号NX1202を付けたP-51Cはポール・マンツが二次大戦後のナショナルエアレース、大陸横断部門のベンディックス杯 (Bendix Trophy Race)で飛ばした機体。

 ポール・マンツ(Albert Paul Mantz) は経歴を偽って陸軍の航空士官候補生となり優秀な成績で飛行学校の卒業を目前に控えた1928年の6月、飛行訓練中に見つけた列車におふざけでちょっかいを出したところ、その列車には飛行学校の卒業式に出席する陸軍幹部の面々が乗っていて、結局陸軍から追い出されたという逸話の持ち主。 マンツはその後高い報酬に惹かれて潜り込んだハリウッドでスタントパイロットとして活躍をする様になり、凄腕の持ち主としてその名を轟かせました。 マンツは既に戦前のナショナルエアレースでもベンデックス杯でロッキード・オライオンを飛ばして1938年と1939年で共に3位入賞を果たす活躍をしていました。

 二次大戦で招集されたマンツは陸軍の訓練や宣伝向けの映画を撮るハリウッド関係者で構成された第1映画部隊の隊長として活躍したあと、除隊後に戦争終結で余剰となりオクラホマの飛行場に溢れていた数百機の機体を映画制作用の名目で安値で買い取りました。 機体に残っていた燃料を抜いて売るだけでも旨味のある取引でしたが、空港明け渡しの期限が迫って結局12機を残して残りを売却してしまいました。

 マンツが手元に置いた機体にはベンディックス杯向けに選んだ2機のP-51C、NX1202とNX1204がありました。 P-51Cは空戦向きのバブルキャノピーが付いたD型に比べ抵抗が少なく、搭載エンジンのパッカード・マーリンV-1650-3もD型に搭載の-6より高高度向きの仕様で大陸横断レース適していると考えられました。 行程が2000マイルを超える大陸横断レースではタイムロスを覚悟でコースの途中で着陸し給油を行うか、抵抗の増加を覚悟して機外に巨大な増槽を吊すのが常道でしたが、マンツは外部タンクを用いず機内に搭載する燃料を極限まで増すことで燃費の嵩む全開運転でのノンストップ飛行を目指しました。 P-51の主翼からは銃と弾薬、重くて分厚いセルフシーリング式のゴム製タンクが下ろされ、構造をシーリングして外翼と翼前縁に至るまで燃料タンクとして利用する「ウェットウィング」仕様とされ、操縦席後方のタンクも下ろされて薄肉の金属製タンクに置き換えられました。 これらの対策によりタンクの総容量は856ガロン、元の容量の3倍超となりました。 また機体からは前述の武装やタンクをはじめレースに不要な装備を降ろして530ポンドの軽量化が施されました。

 1946年8月20日のベンディックス杯当日、出発地カリフォルニア州ロサンゼルス近郊のバンナイズ空港で、マンツは真紅に塗られ#46のレースナンバーをつけたNX1202機にドライアイスで華氏30度に冷却し密度を上げた燃料を給油しました。これによりタンクの容量を超える875ガロン分の燃料が搭載されました。
 バンナイズを離陸したマンツは直後から強いバフェッティングに見舞われました。 振動の原因は油圧システムの不調で脚柱より先に主輪のドアが閉じたからでしたが、マンツは燃料満載で重い機体をループさせ脚を戻し再度脚上げを試みました。 この操作で主脚は正しい格納状態となり、マンツはブースト圧を一定に保つ様に高度を30000から35000フィートの間で調整しながらフルスロットルで駆け抜けました。
 マンツは2048マイルを飛んでナショナルエアレース開催地オハイオ州クリーブランド空港のフィニッシュラインを4時間42分14秒、平均速度435.5mphで通過して念願のベンディックス杯優勝と賞金の10000ドルを手にしました。 これは前回1939年にフランク・フラー (Frank W. Fuller Jr.) がセバスキーP35の競速仕様、S2レーサーで樹立した7時間14分、平均282mphを大幅に更新する新記録でした。
 マンツは1947年のベンディックス杯でも平均速度460.4mphの驚異的な記録で優勝、翌48年には前年までレースナンバー#60をつけていた姉妹機のNX1204を#46に付け替えた機体で参加し空前絶後の3連覇を達成しました。

 NX1202は1947年のレースのあと映画の宣伝のため "Blaze of Noon" と名付けられマンツの操縦で米大陸両岸双方向横断速度記録を更新、48年にはN1202として再登録され石油王のグレン・マッカーシー (Glenn McCarthy)の後援で白く塗り替えられ #60 "Houstonian" と改名されてリントン・カーニー (Linton B. Carney) の操縦でベンディックス杯で2位に、49年では元の赤い塗装に戻されてハーマン・サーモン (Herman R. Salmon)の操縦でベンディックス杯3位に入賞しました。

 N1202はその後長距離飛行性能に目を付けた元海軍の飛行士でグラマンのテストパイロットも勤めていたパンアメリカン航空の機長チャールズ・ブレア (Charles F. Blair) に売却されました。 1951年1月、ブレアは "Excalibur III" と名付けたこの機体でニューヨーク国際空港からロンドン空港までの大西洋横断飛行に挑み、従来のピストンエンジン機の記録を1時間8分縮めた7時間48分、平均速度446mphで飛行しました。 また同年5月にはノルウェーからアラスカまで北極点を超える単独飛行を成功させ、ブレアにはその年で最も活躍した飛行士に与えられる国際賞のハーモン・トロフィーが贈られ、翌年ホワイトハウスでトルーマン大統領からの授与セレモニーが行われました。
 この機体 "Excalibur III" は現在ミソニアン航空宇宙博物館の別館、スティーブン・F・ウドバーヘイジー・センターで天井から吊された飛行状態の姿で展示されています。






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